草加すずのきクリニックのスタッフブログ

カテゴリー ‘臨床心理士ブログ’

2017年5月17日

ひきこもりとは、厚生労働省の定義によれば、「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」のことを指します。現在日本においてこの定義に当てはまる人は、推定で、60万とも100万ともいわれています。
このひきこもりは、日本に特有の問題であるようです。臨床の現場にいると、もちろんひきこもりについて考えさせられることは多くあります。そんななかで先日、マイケル・ジーレンガーという、ジャーナリストが書いた本を読みました。
彼は、日本の社会でひきこもる人を、とてもクリエイティブな人だとみなしています。他人と違った価値観を持ち、独自の道を歩もうとする、というのです。ただ、日本の社会はこうした人たちを協調性のない者とみなし、排除しようとする。それゆえ彼らはひきこもらざるを得ないのだ、というわけです。
実際、臨床現場を訪れるひきこもりのかたや、その親御さんと話していると、ジーレンガーの説にはうなずけるところが多々あります。ひきこもる人々は、社会の矛盾を鋭く突くような感受性に優れているようなのです。彼らはときに、海外に行きたいと希望を語り、そしてそれを実行に移すこともあります。そして実際日本を出ると、劇的に回復し、ひきこもりから脱したりするのです。
このようなことを目にすると、ひきこもりという現象は、なにかを我々に訴えかけようとしているのではないか、と思えてきます。しばしば引用されるユングの言葉に、次のようなものがあります。
「神経症が自我の誤った態度を片づけた時にのみ、神経症は真に除去される。我々が神経症を癒すのではない。神経症が我々を癒すのだ」
我々がひきこもりを解決するのではなく、我々がひきこもりによって我々の態度を変えるとき、はじめてひきこもりは解消されるのかもしれません。

 

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2017年4月27日

「たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。」
上記は宮澤賢治が保阪嘉内へ宛てた書簡の一節です。宮澤賢治はみずからの詩を「心像スケッチ」と名付けていますが、この一節は、賢治にとって、みずからの身体は心像、つまりどこからともなくイメージが現れる舞台にすぎない、ということを示しているのでしょう。
この賢治のあり方は、主体というもののあり方を考えさせます。現代において、主体というのは、自分の人生の主人公のように捉えられています。自分がどのように社会とうまく関わるか、どのように他者を自分の希望どおりに動かすか、どのように自分の利益を最大にするか、どこで妥協をするか、などなど。ただ、当たり前ですが、いつでも物事が都合よく進むわけではありません。その場合には、自分の力のなさに歯噛みしたり、他者を恨んだり、身の不幸を嘆いたりすることもあるかもしれません。
こうしたことから抜け出す場合には、賢治のような「自分を舞台としてとらえる」あり方は参考になるかもしれません。
精神病理学の大家である木村敏先生は、日本語にある「中動態」というものに注目しています。これはたとえば、能動態の「見る」や「聞く」という動詞に対して、「見える」「聞こえる」といった語法です。自分を舞台としてとらえる語法であるといえるでしょう。こうした中動態というのは、主客をはっきりさせる西洋語にはないそうです。こうしたことから考えると、日本人にとって、自分を舞台とみなすあり方は、むしろ自然なのかもしれません。

 

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2017年4月22日

先日、イギリスのウィリアム王子がインタビューで、メンタルヘルスの大切さを訴えたそうです。ウィリアム王子に限らず、イギリス王室では、ヘンリー王子やキャサリン妃もメンタルヘルスのチャリティーキャンペーンに参加したりしていて、イギリスでは日本よりもメンタルヘルスに真剣に取り組もうとする姿勢があるのかもしれません。

さて、ウィリアム王子はこのインタビューのなかで、「心の傷を語ることの重要性」を指摘しています。王子自身、このことによって母であるダイアナ妃の死を乗り越えることができたといいます。

心の傷によって引き起こされるものの代表的なものに、PTSDと解離性障害があります。

PTSDは、歴史的にはベトナム戦争帰還兵が、①過覚醒による不眠、②戦争を思い出させるような場所や物の回避、③戦争体験のフラッシュバック、といった症状を示したことから注目されるようになったもので、過去の心の傷をきっかけとして発症します。

解離性障害は、現実感がなくなったり、ある特定の時期の記憶が想起不能になったり、あるいは人格がその時々で入れ替わるいわゆる多重人格になったりします。解離性障害の場合には、心の傷が明確でなくても上記のような症状があれば解離性障害と診断されますが、それでも解離性障害の背後には、多くの場合心の傷が隠されています。

ウィリアム王子のインタビューでは、心の傷を語ることが重要とされていましたが、当然、傷を語ればそれで治るというものではありません。語るためには、語っても安全だと思わせるような、信頼感に満たされた場所が必要です。さもなければ、傷を語ることによって、さらに傷をえぐられるようなことになりかねません。

PTSDや解離性障害において、「心の傷を語ることの重要性」とは、「心の傷を安心して語れる場所の重要性」と言い換えてもいいかもしれません。この、安全な場所さえあれば、語るか語らないかはむしろあまり重要ではないのだろうと思います。私も心理療法を実践するものとして、安心できる場所を提供できれば、と日々思っています。

2017年4月13日

最近カウンセリングをしていると、来談される方のなかに、ご自身でネットを調べて、「自分は発達障害かもしれないと思って来た」とおっしゃる方を何人もみかけます。そしてそういう方のお話をうかがっていると、なるほど、たしかに発達障害の特徴が多くある、と思わせます。
発達障害の特徴を記述したものとして、もっとも有名なものに、ローナ・ウィングという人の提唱した「三つ組」というものがあります。これは「対人相互性の障害」、「コミュニケーションの障害」、「想像力の障害」の三つからなりたっています。「対人相互性の障害」は、相手の気持ちがわからず、場違いの行動をしてしまう、といったものです。「コミュニケーションの障害」は、言語の遅れなどによって示されます。「想像力の障害」は、常同的な行動やこだわりの強さといったものに現されます。なぜ想像力の障害がこだわりの強さに結びつくのかというと、発達障害のないいわゆる定型者からすれば想像できるような変化でも、発達障害があると、それは突発的な変化として感じられ、パニックを引き起こすため、変化に抵抗しなくてはならないからです。
こうした発達障害は、こうした特徴を持つ子供の障害と考えられていたのですが、近年は、同じような特徴を持つおかげで生きづらさを抱えている大人たちも増えているようです。より正確にいえば、もともとそうした生きづらさがありながらも、自分の状況を適切に言い当てる記述がいままでなかったのが、発達障害という考え方が世に広まるにつれ、自分の状況をようやく把握できるようになったのでしょう。
発達障害を抱える大人たちが、自分は発達障害かもしれない、と感じるのは、ローナ・ウィングの「三つ組」を直接感じて、というよりも、個別の状況でうまくいかないときに、なぜうまくいかないかを考え始めるのがきっかけのようです。ここではいくつか、そうしたきっかけになるような特徴をあげておきます。

1.物事を俯瞰して見られない。
場当たり的に問題を解決していくうちに、さらに大きな問題に行き当たることが多いようです。

2.予定を立てられない。
想像力の障害があるため、未来のことが考えにくいです。

3.選択ができない。
未来のことが考えられないため、どちらの選択肢を選んだらどうなるのか、予測ができません。

4.同時に色々なことができない。
注意の転換が難しく、ひとつのことに取り組むと、それ以外は目に入らなくなります。

5.場の空気が読めない。
対人相互性の障害ゆえ、場の雰囲気や行間が読めず、まったく理由がわからないけれど他人から煙たがられている、という状況に陥ることもあります。

 

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2017年4月8日

「心理学」という言葉は、明治時代初期の西周(にしあまね)という思想家が、「哲学」や「概念」という言葉と共に、西洋の言語から日本語へ訳出したのがはじまりだそうです。でも、もともとこの「心理学」という言葉は、「mental philosophy」の訳語だったようで、それがいつの間にか「psychology」の訳にも当てられるようになったそうです。psyheというのは「soul」、「魂」を表す言葉ですから、「psychology」は本当は魂の学問なのだろうと思います。

「心はどこにあるか?」という問いに対する、現代の一般的な答えは、「脳」ということになります。では「魂はどこにあるか?」だと、どうでしょうか。そもそも「魂」などと、現代で問題になることなどほとんどないのですが、まあそれでもあえて言えば、胸のうち、といったところでしょうか。でも、身体の内側に魂がある、という感覚も、比較的最近になって起こってきたもののようです。

たとえば、自分の持ち物、箸とか茶碗とか、よく使うものに、自分の魂が宿っている。この感覚って、言われてみれば日本人であればわかると思います。この「言われてみれば」という但し書きがつくのは、我々が現代人になってしまったからで、一昔前までは、魂が外にある、というのは割と当然のことだったのかもしれません。「源氏物語」で、六条御息所が生霊となって現れますが、あれは現代だったら超常現象ですが、物語の中ではわりと普通のこととして登場人物たちに受け入れられています。やっぱり当時は、魂は外にあったんでしょう。

それが、西洋的な個人主義が入ってきて、魂というのは自分の身体の中に入っているものだ、という感覚がいわば常識になってきた。西洋人はそれでも「soul」と「mind」の区別はつくのかもしれませんが、日本人にとっては、魂が身体の内側にあるとなると、それは「心」と区別できなくなって、「psychology」が心理学になったのかもしれませんね。

ところで、現代の感覚では、「心は脳にある」と述べましたが、どうも最近は脳科学のほうでも、脳を、個人の頭の中にある単体の脳だけで完結するものと捉えるのではなく、外の世界を含めて捉えようとしているようです。閉鎖系の脳ではなく、開放系の脳です。もちろん外の世界と直接ニューロンで交流しているわけではないですが、外の世界ともネットワークでつながっていると捉えて、外の世界も含めた脳のようなものを想定しているわけです。もちろんそれは、境界もはっきりしないし、実体のないものですが、ある意味でこれは、魂が外にある、といってもいい事態のように思えます。

心理学でも、以前は「内省」というものが重視されていました。対象としての自分を、主観としての自分が見つめる、というものです。これはこれでいまでも重要な意味をもっているのですが、時代とともに、もっと外にあるものも重視されるようになっています。たとえば精神分析では「転移」というものが重視されるのですが、これは分析家との関係性といったようなもので、いってみれば、この関係性こそが心だ、とみなしているわけです。とくに最近では、もっと大きな枠組みで心や魂を捉えるようになっていて、心や魂のありかは、個人の内側だけに限定されなくなってきました。これは前述の脳科学の発展と軌を一にしているのでしょう。